国家の発展

「クロアチア人」と「クロアチア」という名称は、より広い民族名である「スラヴ人」と、スラヴ人の最古の地理的共同体であった「スクラヴォーニア」や「スロヴィニャ」(ラテン語:「スクラウィニアエ」)、さらに起源の古いイリュリア部族とその領土の特別な名称(例えば、ダルマタエ族、リブルニ族)、沿岸地域にあったローマ帝国の住民(ロマーニ、ラティーニ)と、民族移動時代の時に既に定着した他の部族の名称(ゲルマン系のゴート族、欧亜のアヴァール/オーブル族)を徐々に置き換えてきた。東西教会の分裂後の、特にスラヴ化されたヴラフ人の移住やオスマン帝国の侵入による「トルコ」(ボスニア)側からの難民の流入に関連した国民のアイデンティティーへの影響から、19世紀の国家形成の時代にはカトリック教徒の大部分はクロアチア人、正教徒はセルビア人、イスラム教徒は「トルコ人」として自らを称していた。クロアチアの古い作家は、自らの言葉を「クロアチア語」に加え、時には「スラヴ語」、「スロヴィン語」、一時期は「イリュリア語」とも呼んでいた。異なる名称は必ずしも矛盾しているわけではなく、クロアチアの民族、その文化と国家の多層性を持った歴史的要素や、近代では他のヨーロッパからの移民の流れ(ドイツ/シュヴァーベン、イタリア/ フリウリ、チェコ、ハンガリー、スロバキア等)の融合から生じている。

オトン・イヴェコヴィッチ、『トミスラヴ王の載冠式』(1904年–1905年)。トミスラヴは925年にクロアチアの初代王として戴冠した。
ベラ・チコッシュ=セシヤ、『クリアチア人の洗礼式』(1907年)
クロアチアの統治者の像、スプリトの聖ヨハネ洗礼堂(11世紀)

ローマ帝国の崩壊後、最初のヨーロッパ諸国が形成された時代には、他のヨーロッパの民族と同様に、西欧ではローマ、すなわち教皇と、東欧ではコンスタンティノープル、すなわち東ローマ帝国の皇帝によって承認されることが重要であった。クロアチア人はその双方の境界線上にあった。最も有名で広範囲にわたるビザンチンの原典は、コンスタンティノス7世ポルフュロゲネトスによる『帝国統治論』(ラテン語:『De Administrando Imperio』、949年–955年頃)である。それによるとクロアチア人はヘラクレイオス1世(610年–641年)の招きにより現在の南ポーランド(「白クロアチア」)からやって来て、アヴァール人とその当時のスラヴ人の味方を支配した。最初の外交的行為であるクロアチアとローマ教皇アガト(678年–681年)の間で結ばれた条約では、既に「キリスト教へ改宗したクロアチア人」は、他の地域を決して侵略しないことを宣誓し、教皇は他民族がクロアチアの土地に侵入する場合支援することを約束した。この資料によると、クロアチア人は最初に洗礼を受けたスラヴ民族になる。「クロアチア人の到来」と特定の歴史的資料の信憑性については、今も現代歴史学で議論されている。

フランク王国と東ローマ帝国の紛争の境界線に位置していたクロアチアにおいて、9世紀には最初の公爵領が樹立された。フランク王国の史料によると「ダルマチアとリブルニアの公爵」(ラテン語:「dux Dalmatiae atque Liburniae」)であったボルナ(810年–821年)は、当時強力であったフランク側につき、フランク王国の支援を受け、自らの敵対者である(スラヴの)パンノニア公爵領のリュデヴィット・ポサヴスキ公爵との紛争を解決した。ボルナは、カール大帝と東ローマ帝国皇帝ミカエル1世ランガベーの間のアーヘンの和約締結(812年)に自ら立ち会い、この条約によりパンノニアのクロアチア(とイストリア)はフランク王国の支配下となり、ダルマチアの沿岸部と都市は東ローマ帝国の支配下に入った。

地元の公爵の権力は、外部勢力の争いの中でも次第に強まっていった。最初の強力な統治者として目立ったのはトゥルピミル王朝を樹立したトゥルピミル公爵(845–864年)であった。フランク王国の統治下にもかかわらず、彼は東ローマ帝国やヴェネツィア、そして当時東側で勢力のあったブルガリア帝国に対し単独で戦争し成功を収めた。記録文書では、王国の権威に言及せず「神の恩寵によるクロアチアの公爵」(ラテン語:「dux Chroatorum iuvatus munere divino」)と自称した。フランクから異端のかどで告発されたザクセン人の神学者ゴットシャルクは、明らかに安全に感じられたトゥルピミルの宮廷に避難し、トゥルピミルを「スラヴの王」(ラテン語:「rex Sclavorum」)と呼んだ。

ズデスラヴ公爵の時代の東ローマ帝国の覇権と、ローマとコンスタンティノープル総主教フォティオスとの対立の後、クロアチアではローマ教皇ヨハネス8世の支援によりブラニミル公爵(ラテン語:「dux, comes, princeps」とも呼ばれる)(879年–892年)が権力を掌握した。ブラニミルはクロアチアを恒久的にローマや西欧文明圏へと向けさせ、ダルマチアの都市と海戦で負けたヴェネツィアにも「平和の貢ぎ物」(ラテン語で「tributum pacis」)を課すことに成功し、フランク王国に対しても独立した政治を行使した。879年の書簡により教皇に彼の「地の公爵領」に対して完全な統治を認められ、880年に教会スラヴ語による礼拝を合法化した。その時代にフランクによりモラヴィア王国から追放されたメトディウスの弟子たちがクロアチアに到来し、スラヴ語による礼拝と特別なスラヴ語の文字(グラゴル文字)の識字能力を広めた。

伝統的な修史によると、教皇ヨハネ10世が925年にトミスラヴを「クロアチアの王」(ラテン語:「rex Croatorum」)と呼び、クロアチアの最初の王位を授けた。トミスラヴは「アドリア海からドラーヴァ川まで」のクロアチアの土地を併合し、ハンガリーの侵入を撃退し、ブルガリアの皇帝シメオン1世の軍隊に大勝利した(927年)とされ、現在はクロアチアの多くの通りや広場にトミスラヴの名がつけられている。聖座により認められた王位は、後のいわゆる国の統治者にも継承され、中でも最も重要なのはペタル・クレシミル4世(1058年–1074年)である。ラブのベネディクト会修道院の設立の文書(1059年)では、クロアチアは王国と呼ばれ(「クロアチア・ダルマチア王国」、ラテン語:「Croatiae Dalmatieque regnum」)、アドリア海は「我々のダルマチア海」(ラテン語:「in nostro dalmatico mari」)と呼ばれている。

クロアチアの民族王朝に属したクロアチアの最後の勢力のあった王はドミタル・ズヴォニミル(1075年–1089年)で、彼はイストリアでフランク王国(ドイツ人)と戦い、教皇グレゴリウス7世から載冠を受け、同教皇の遣外使節ゲビゾンを通じて王冠を贈られた。彼の聖座との強い結びつきは、全てのクロアチアに対する敵対行為は、聖ペトロの教皇座への攻撃とみなされるという教皇の声明により確固なものとなり、クロアチア(とダルマチア)の王国(ラテン語:「regnum Dalmatiae et Chroatiae」)としての地位が確立された。スラヴォニアも統治し、アールパード朝のハンガリー王ラースロー1世の妹にあたるヘレン(クロアチア語では「イェレナ・リエパ(美人のイェレナ)」を妻にしたズヴォニミル王の死後、クロアチアのヨーロッパの政治関係における独立国家としての地位は変化した。ハンガリーのアールパート朝は、一定程度のズヴォニミルの妻としての家系の相続により、クロアチアの王座継承権を主張し、クロアチアにおける王朝崩壊と継承戦争の中でそれを得た。

クロアチアとハンガリーの関係は頻繁に政治的、歴史学的な論争のテーマとなっている。『パクタ・コンヴェンタ』(クロアチア語では『締結された条約』、1102年)は、ハンガリーのカールマーン王がクロアチアの王として承認され、クロアチアの貴族の権利を規定した文書であり、その14世紀の写本しか残っていない。ハンガリーのナショナリズムが高まった19世紀半ば、ハンガリー側が『パクタ』の内容を否定したが、クロアチア側はそれを独立国家としての根拠とした。何れにしても、その協定、あるいは当時の他の協定に基づき、ハンガリー王とは別個のクロアチア王として載冠され、クロアチアの議会とクロアチアの総督(「バン」)の制度が確立され、クロアチア=ハンガリーの連合が当初より同君連合として設立されたことは事実である。

オトン・イヴェコヴィッチ、『クロアチアの貴族によるコロマン王への平和のキス』(1906年)
ティントレット、『ザダルの征服』の細部(1584年)
クロアチア・スラヴォニア王国の公文書を収めた櫃(1643年)

連合の中でのクロアチアの国家としての独立は、1526年のモハーチの戦いでクロアチア・ハンガリー軍がオスマン帝国に大敗し、当時クロアチア・ハンガリー(とチェコ)王国のヤギェウォ朝の国王ラヨシュ2世の死後のクロアチア・ハンガリー連合王国の存続にとって鍵となる時点で完全に明確になった。クロアチア議会はツェティングラドでの会議で(ツェティン会議、1527年)、クロアチアの王として自らハプスブルクのオーストリア大公フェルディナント1世(1503年–1564年)を選出した。ハンガリー議会はそれに反し、事実上オスマン帝国の支配者スレイマン1世の庇護下のサポヤイ・ヤーノシュを選出した。フェルディナントは当時クロアチアに対し、それまでの全ての自由、権利、法律、慣習の尊重を保障し、それがクロアチア王国の印章のある憲章にも記載された。フェルディナントを選出し、クロアチアは長きにわたるハプスブルク帝国を構成する一部となった。国家連合は個別の王国の連合として実行されたが、ハプスブルク家は帝国の中央集権化を始め、ウィーンが一層政治決定の中心となった。

海事大国としてのヴェネツィアとクロアチアの千年にわたる関係は極めて複雑であり、海上や陸上の激しい争いや協力と共同防衛の時代があった。ヴェネツィアの口語と文書では近代にいたるまでクロアチア人に対して通常「スラヴ人」(「スキャーヴィ」、「スキャヴォーニ」)という名称が用いられ、その後ダルマチアの後背地にいた「ヴラフ人」が「モルラック人」(「モルラッキ」)と呼ばれた。864年にクロアチアの公爵になったドマゴイはヴェネツィアの年代記編者ジョヴァンニ・ディアーコノに「スラヴ民族の最悪の公爵」(ラテン語:「pessimus Sclavorum dux」)と名付けられ、ヴェネツィアの船に海賊行為を仕掛けた。ブラニミル公爵は887年のマカルスカ沖での、ヴェネツィア共和国のドージェ、ピエートロ1世カンディアーノが亡くなった海戦で勝利した後、ネレトヴァ公国と同盟を結び、ヴェネツィアに対し安全航行のための貢物を課し、それはその後100年続いた。それでも「海の女王」と呼ばれたヴェネツィアは徐々にその形勢を逆転していった。ヴェネツィア共和国のドージェ、ピエートロ2世オルセオロは1000年以降ダルマチア沿岸の大部分を支配し、ダルマチア公爵(ラテン語:「dux Dalmatiae」)と自称した。しかしながらその1世紀後、1409年までダルマチアの都市はクロアチア・ハンガリー連合王国の支配下にはなったが、クロアチアとヴェネツィアの間の争いは続き、終始その状況は運次第であった。そのような中ヴェネツィアは1202年、十字軍のコンスタンティノープルまでの輸送費を負担することでその軍隊の支援を受けてザダルを征服した。ヴェネツィアの支配下にあったイストリアやダルマチアの都市は、独自の特権を維持するために、しばしば反乱を起こしていた。クロアチア・ハンガリー連合王国の王位を狙ったが失敗したナポリ王のラディスラーオ1世は、ヴェネツィアに1409年に10万ドゥカートでダルマチアを支配する「権利」を与えた。このような国際的な法律上の背景や、ダルマチアの後背地に頻繁に見られるようになったオスマン帝国による脅威に対し、ヴェネツィアはダルマチアのキリスト教徒の住民に対する実際的な防衛の役を担い始めた。民族的に全く近い、あるいは同様のアイデンティティを持っていたイスラム教徒とキリスト教徒の移住を頻繁にもたらした陸上・海上での困難な戦いが続いたが、1718年のパッサロヴィッツ条約によりヴェネツィアのダルマチア領はオスマン帝国と接している国境を確立し、それが今日のクロアチアとボスニア・ヘルツェゴヴィナの国境となっている。

ドゥブロヴニク共和国は、クロアチアの国家主権の歴史において特別な意義を持つ。12世紀、アラビアの地理学者イドリースィーはドゥブロヴニクに言及し「クロアチアとダルマチア」の最南端の都市として記録した。ドゥブロヴニク共和国は、貴族たちの権力の担い手としての厳格な責務に基礎づけられ、その総督邸に刻まれた標語では、「私事は忘れ、公務に努めよ」(ラテン語:「Obliti privatorum publica curate」)と宣言されている。ドゥブロヴニクは当時の隣国の様々な勢力の覇権に影響されたが、常に完全な内部自治と、特に交易上の独自の特権を保持していた。1358年に正式にヴェネツィアの支配から解放され、毎年クロアチア・ハンガリー連合王国に500ドゥカートを、1458年からはオスマン帝国のスルタンに12,500ドゥカートを支払う義務があったが、ドゥブロヴニクはあらゆる点において独立した国家であり、ヨーロッパ中に外交使節代表部を置き、南東ヨーロッパと中東における強力な貿易の中心地としての地位を有していた。フィレンツェやその教皇の「黄金時代」にはそれらとのつながりが強く、ドゥブロヴニクはヴェネツィアにとって危険な地中海の競合者となり、その外交活動はヨーロッパの国やオスマン帝国の政府との関係にも影響を及ぼし、フランスは時折ドゥブロヴニクを仲介者として利用した(例えば1536年のフランス・オスマン同盟締結の際のセラフィン・グチェティッチ)。街の規模に不釣り合いなほどの富は、卓越した都市計画の業績を残すことを可能にした。最初の近代的な下水道、船舶検疫隔離、組織化された医療体制と現在も営業しているヨーロッパ最古の薬局、最初の海上保険法等など、さらに1416年に制定された奴隷禁止法(スペインは1542年から、イギリスは1569年から)がある。守護聖人の聖ヴラホの保護と街のスローガンである「自由」(ラテン語:「Libertas」)のもと、ドゥブロヴニク貴族の中では1808年のナポレオンによる共和国廃止の後、「奴隷状態」で子孫を残すなら結婚はしないと決意した者もいた。

クロアチアの貴族階級は古くからの民族の家系(一族)を起源とし、クロアチアの国家の地位には依存せず、時折国王のそれを超える権力を握った。例えば、パヴァオ1世ブリビルスキ(1273年–1312年)はクロアチア・ハンガリーの王朝間の王位継承争いで、アールパード朝の代わりにアンジュー家(カーロイ1世ローベルト(1301年–1342年))を即位させ、その間自身は「クロアチア総督とボスニア領主」の称号で「冠のないクロアチア王」としてボスニアを含むサヴァ川からアドリア海にかけての地域を支配した。彼の貴族家系は、特に後のズリンスキの分家として、クロアチアとハンガリーで巨大な地所を有し、有名な戦士(シゲトの守護者ニコラ・シュビッチ・ズリンスキ)や、オーストリア皇帝レオポルト1世の絶対主義に対する危険なライバルも輩出した。1671年、ペタル・ズリンスキは2番目に有力なクロアチアの別の貴族の子孫であるフラン・クルスト・フランコパンと共に陰謀の罪で死刑の有罪判決を受け、両人はウィーナー・ノイシュタットで処刑された。その資産は全財産没収となり、その結果クロアチアの二大貴族が断絶した。

ハプスブルク帝国の中で独立した王国としてのクロアチアの地位は、ハプスブルク家の女系の王位継承の可能性に絡んで特に重要な課題となった。カール6世には男子がいなかったため、クロアチア議会は1712年『国事詔書』を承認し、ハンガリー議会の反対があったにもかかわらず、娘のマリア・テレジアをクロアチアの女王とし王位継承に道を拓いた。マリア・テレジアの時代、クロアチアはベルギーまで伸びる帝国の東南端に位置する王国となった。その当時クロアチアとベルギーは重要な関係が生じたとは言えないが(紋章を除く)、今日のブリュッセルのヨーロッパ議会のクロアチアの代表者は、クロアチアがベルギー(や他の国々の多く)と共同体になったのは初めてではないことを思い起こすことができる。

二つの王国の国家権力機関としてのクロアチアとハンガリーの議会のあいまいな関係と、その実質的な権力の中心であるウィーンとの共通の関係は、ハンガリーが多数を占める共通の議会の方へと次第にその役割が移っていった。それでも、共通の議会でクロアチアの代表はクロアチアに関する決定に関しては拒否することができ、クロアチアの代表によるクロアチアに関する提案に関して拒否できるのは国王だけであった。1790年にはブダでの共通の議会の合同会議においてクロアチア代表団は、クロアチアにハンガリー語を導入するという法案を有名な声明で拒否した:「王国は他の王国の法律を規定しない」(ラテン語:「Regnum regno non praescribit leges」)。

ナポレオンのヨーロッパ構築は、トリエステからコトルまでの「イリュリア」南東部の独自性を考慮に入れていた。イリュリア州(1809年–1813年)はリュブリャナを中心としスロベニアに加え、クロアチアの半分以上(サヴァ川の南からアドリア海沿岸部まで)を占め、住民構成はクロアチア人が大多数を占めていた。マルモン総督の特別な権威によるフランス統治下のこの実体は、国家としての地位は持っていなかったが、フランス帝国の統一された部分でもなかった。短期間ではあったが、ナポレオンの「イリュリア」はクロアチアの近代化を引き起こした。それは道路のインフラからクロアチア語(「イリュリア語」)での学校や、最初のクロアチア語の新聞(「ロイヤルダルマティン」、ザダル、1806年–1819年)にまで及んだ。フランスの近代化の影響はすぐにクロアチアの民族復興運動として知られるイリュリア運動として表面化した。

クロアチア・ハンガリー連合王国、ハプスブルク帝国、オーストリア=ハンガリー帝国や2つのユーゴスラビア(統一国家と社会主義連邦)のような複合的な国家共同体の一部としてのクロアチアは、似ている状況に置かれていた他のヨーロッパ諸国と同様、多かれ少なかれ存在した各共同体の中央集権化のため、国際関係において独立的な行動をとることができなかった。とはいえ、クロアチアはセルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国、いわゆる後のユーゴスラビア王国の形成を除き、国家としての権利の承認に基くクロアチア議会の決定(貴族、階級代表、市民代表)により、これらすべての共同体に自らの意志で加わった。

「クロアチアの国家としての主権」というシンタグマはクロアチアの政治史において特別な意義を持つ。クロアチアは1102年に終わった民族統治者の時代から900年以上の間、ドゥブロヴニク共和国を除き多国籍国家共同体を王国、総督の統治下の地域、共和国としても構成し、クロアチアの国家としての主権は常に、クロアチア国民の自決あるいは自らの国家に対する基本的な権利とみなされていたが、その権利は実現できたというわけでもないが、否定もできなかった。

オーストリア・ハンガリー帝国の崩壊と南スラヴ地域のスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国の成立(1918年の当時の議会決定)後、セルビア政府の元オーストリア・ハンガリー帝国領土の有力な政治家(ユーゴラビア委員会)との間で合意された『コルフ宣言』(1917年)に反して、セルビア政府がセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(1929年以降はユーゴスラヴィア王国)を成立させた。1921年の憲法制定議会は、クロアチア代表の大部分は棄権する中、その場の出席者による(無条件の)多数決により、中央集権主義の「ヴィドヴダン憲法」を採択した。それ以来、他の未解決問題とともに、特に重要な「クロアチアの問題」はユーゴスラビアにおいて依然として頭をもたげ続けた。

クロアチア農民党(HSS)の指導者スティエパン・ラディッチが命を落とした1928年の国民議会でのクロアチア代表者の暗殺事件により、国の民族間の関係を激化させた。国際的な舞台に初めて政治的亡命中のクロアチア人民族主義戦闘団体(ウスタシャ)が登場し、ユーゴスラビアを倒すための活動で、テロリストの手段も用いた(1934年マルセイユでのアレクサンダル1世カラジョルジェヴィッチ国王暗殺に参加)。一方では、より強い国際的な繋がりがある非合法の反共産主義者の野党は、特にザグレブとクロアチア各地で活動し、その目的は王国を倒しソビエト・ロシアを手本に「対等な民族による連邦共和国」を革命的な方法で樹立することであった。

クロアチアの歴史的地域の最初の統合地図、クロアチアの博識家で地図製作者のイヴァン・ルチッチ著作『クロアチアとダルマチアの王国ついて』で1668年に出版。
1928年のベオグラードで開催された国民議会でのクロアチア代表者の暗殺事件
1997年6月8日にフラニョ・トゥジマン大統領は、ドナウ川流域のクロアチア共和国の憲法・法秩序に基づき再統合するプロセスの完了前にヴコバルを訪問した。

君主制ユーゴスラビアと民主主義は共存できず、いずれにしても当時のユーゴスラビアは未だかつて民主的な憲法をもったことはなかった。アレクサンダル王はまず準国家テロ組織(クロアチアの「オリュナ」、セルビアの「チェトニック」)の支援を受け、その後1929年に自ら独裁政権を導入し、政党を禁止し、警察のテロ行為と「共和主義者」の殺害を認め、最後に1931年オクトロワ憲法を導入し、その憲法を廃止することはなかった。このような文脈で、第二次大戦の勃発直前の根深い国家の危機を背景に、クロアチアの指導者とセルビアの一部の政治家の間でツヴェトコヴィッチ=マチェク合意が締結されユーゴスラビア王国の中に、「バノヴィナ・フルヴァツカ」という総督と議会が率いる自治州が設定された。それにより短期間、王の代行を設定することにより、クロアチアのある程度の主権が認められたが、その主権の範囲が憲法で完全に定義されることはなく、クロアチアには国際的(外交政策)、安全・防衛的主体性もなかった。

第二次大戦中、枢軸国に協力しクロアチア独立国(NDH)を構成したクロアチアでのウスタシャの活動はクロアチアの大部分を占領軍に明け渡し、テロリストの支配による犯罪が広範囲に広がり、完全に国民の信用を失墜させたが、そのウスタシャに反してクロアチア人のヨシップ・ブロズ・チトーの率いる共産主義者達は「国民革命」であった大規模な反ファシスト蜂起を主導した。戦争の主導権を握り、クロアチアの大部分を掌握した共産主義者は(クロアチア農民党の一部およびセルビア人議員クラブと協力し)、「国家政府」の最高代表機関を形成した。

クロアチアの反ファシスト運動は、占領下のヨーロッパにおいて最も強力なパルチザン運動の一つであった。その中で、クロアチア人民解放国家反ファシスト委員会(ZAVNOH)が組織され、1943年6月にクロアチア議会の権限を引き継ぎ、その第3回会議で(トプスコ、1944年5月)クロアチアの立法権を持つ議会において、行政権の代表部である国家権力の最高機関であると宣言した。その時将来のユーゴスラビア連邦の共和国の一つとしてのクロアチア連邦国を含む、ユーゴスラビア民主連邦を実現する決定を受け入れた。

ユーゴスラビア連邦人民共和国(FNRJ、1945年–1963年)においてクロアチアは、国境線により確定された共和国の一つであり、ユーゴスラビア王国時代にイタリアの領土であった地域と、ファシスト占領下でイタリアが併合したクロアチア住民が多数を占める地域(イストリア、リエカ、ザダル、島嶼部)に拡大された。ユーゴスラビアの連邦国は原則的に正当な自決権をもつ国家として定義されていたにもかかわらず、実際は中央集権だけでなく共産主義のイデオロギーに固執していた。戦後すぐに、歴史的にも政治的にも最も重要であったクロアチア農民党の活動が禁止され、反ファシストを含め、多くの党員が訴追され有罪となり重い懲役刑に処された。その結果、民主主義政治家や民族主義的な「敗北勢力」の新しい政治亡命の波が起こった。

社会主義体制のユーゴスラビアはその50年間を通して(1963年–1991年、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(SFRJ)と呼ばれた期間)統治の政治的特質を相当変更したが、常に共産党の厳格な監視とチトー元帥の個人的権力(あるいは個人崇拝)の監視下に置かれた。民主化は1960年代半ばに比較的進み、大規模なクロアチアの自治権拡大の要求を掲げた民主化運動「クロアチアの春」(1971年)として現れ、その政治的担い手は鎮圧された(1972年)が、1974年の憲法では共和国に国家としての権利が拡大された。しかしながら、連邦委員会の多数決による決定と連邦共和国議会の議院の合同決定制度を通した多数決による意思決定は維持された。共和国の国際的な活動に一定の自由が与えられ、クロアチア(とスロベニア)は、イタリア、ハンガリー、オーストリア、ドイツの一部地域と組んでアルプス・アドリア海作業部会を創設した(1978年)。

クロアチア共産主義者同盟の役割は全体として「ユーゴスラビア共産主義者同盟の統一」に基づいていた。この統一はユーゴスラビアの国家としての維持にとって譲歩できないものであった。当初ソビエト連邦寄りの共産主義のイデオロギーを掲げていたが、後にユーゴスラビアはソ連圏から離脱し(1948年)、1950年代初頭から西側と結びつき(アメリカの軍事援助を含め)、また複雑な国内の関係により、共産主義者同盟の中でも異なった政治的解決を必要とした。中には民主化(「自主管理社会主義」の導入)や地方分権化(共和国の権利、経済活動や地域社会からの収入の一部の留保)を志向するものもあった。しかしながら、このような解決策はいつも「独断主義者」(中央集権主義者)と「民主主義者」(連邦主義者)の勢力間の軋轢に直面し中途半端に終わっていた。これらの軋轢は、ベオグラードで開催されたユーゴスラビア共産主義同盟第14回会議(1990年1月)で頂点に達し、セルビア指導部と対立し、まずスロベニアが、それからクロアチアの代表団が離脱した。それによって共産主義者同盟の統一の瓦解が幕を開け、国家同盟としてのユーゴスラビアの崩壊の可能性が浮かび上がってきた。

現在のクロアチア共和国は強要された戦争により自ら独立を実現した。他の社会主義多国籍国家の崩壊(チェコスロバキア、ソ連の大部分)と異なるのは、共和国の「自決権による分離独立」が憲法で保障され、1991年5月の国民投票で明確に国民の意思が表明された(賛成94.17%)にもかかわらず、クロアチアは国家として平和的手段による独立を実現する事が出来なかった事である。クロアチア内のセルビア分離主義戦闘集団と、セルビアの政治指導部とユーゴスラビア人民軍は、セルビアの過激派準軍事組織(チェトニック)の支援を受け、クロアチアに対し露骨な攻撃を開始した。祖国戦争での防衛に成功した後(1991年–1995年)占領地を解放し、その他の小さな地域を平和的に再統合し(1998年)クロアチアはついに完全な独立国家となり、ユーゴスラビアの共和国であった時と同じ国境線を実現した。最初の国際承認は祖国戦争中に、まず1991年12月にアイスランドで、その後他の国際的に承認されたヨーロッパ諸国からも1992年1月までに承認された。1992年5月、クロアチアは国際連合の加盟国となり、1996年11月には欧州評議会に加盟した。さらに、2009年4月には北大西洋条約機構(NATO)に、2013年7月には欧州連合(EU)に加盟している。